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昨日の徒然記にも書いたが、世界には恋愛を科学的・医学的に分析しているという者がいるらしい。恋愛を科学的に分析できるのであればいずれはSMまでも科学的分析を行う学者まででてくることだろう。いや、もうすでに存在しているのかもれない。
SMをどう科学と結びつけるかはわからないが、もしなんらかの結果がでるのであれば一目拝見したいものである。SM=恋愛でないことはここを見ている方であればすでに解っていることであろう。もちろんSM=恋愛という図式を否定しているわけではない。そういう関係でうまくやっているという御二人だっているからだ。私が言いたいのは必ずしもそうではないということである。恋愛真っ最中の2人が自らの愛を確かめる事象としてSM行為を行ったとしても何も疑問はない。ただし、恋愛をしている恋人同士は誰でもSMの世界に踏み込めるわけではない。
では、SMで心の絆を結ばれた2人はどうだろうか?
そこにはいつも恋愛感情が含まれているとは限らない。お互いを信頼し合い、強く抱き合い、オルガズムを共有する。縛り、スパンキング、露出・・・数々のSMプレーだってその底辺にあるのはお互いの信頼である。信頼がないものはただの暴力であり、いじめである。
これだけを聞けばSMの絆も恋愛の絆と変わりないではないか?と感じる。
しかし、SMと恋愛では結びつきに大きな違いがある。
それはSMと一言で行っても、その行為はさまざまであり、求めるものを人によってことなる。ある人は恋人のような関係を求めるが、ある人は自分とは切り離されたような存在を求める。そしてある人は自分とはあきらかに不釣合いな恒久の存在を求める。その根底には生活があり、性行為がある。そんな姿を誰にでも見せるわけではない。だが、必ずしも2人の間にだけ存在するものとも限らない。SMには考えれば考えるほど無限の思考にはまっていく神秘がある。だから私の中では恋愛と同等の結びつきとは考えたくないのかもしれない。
ある人はSMでの心の繋がりを恋愛以上の結びつきと表現する人までいる。恋愛という定義ははっきりしていない。もちろん科学的にも研究中である。当然のことながら恋愛の結びつきを表す単位などない。にも関わらず「SMでの心の繋がりを恋愛以上の結びつき」と言える人がいるのだ。
人間の感覚とは不思議なものであり面白いものである。
恋愛の延長にSM的快感があるのは間違えではない。しかし、それだけではない。それは踏み出したものにしかわからない幸せだろう。私達はこんな幸せな世界にいることができるのだ。何も後ろめたさなど感じる必要は無い。せっかく興味があるのに経験できないことが可哀想にさえ思えてくる。自分の肌にあわないようであれば無理をしないでやめればいい。合う人と合わない人がいる世界なのだから。科学でもわからない世界なのだから・・・
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